佐田岬半島に沈む夕陽
「風の樹」より主人撮影
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「千鳥」の由来〜「千鳥姫」と杏の里


杏の花

八幡浜市合田地区は、かつて、各家の庭先に杏が植えられ、「一望千本合田杏」と称される「杏の里」であり、 合田の人々は、三月にはその花を愛で、五月には果実を味わっていました。

この杏は、鎌倉時代初期の武将・梶原景時の長男・梶原景季(かげすえ)の妻とされる「千鳥」という姫 が合田にもたらしたと言い伝えられています。 夫・梶原景季が政争に敗れたその父・景時とともに自刃した後(「梶原景時の変」)、千鳥は、 この合田の地に落ち延び、夫の菩提を弔い、写経の日々を送りその生涯を終えたと言われており、 合田の杏は、この千鳥が道中薬用として杏の種を持っていたことにあやかって植えられたのが始まりであると伝えられています。


千鳥姫の祠

この千鳥ゆかりのものとして、合田には「ちどりが丘」と呼ばれる所があり、そこに「梶原源太景季妻チドリ」の銘の入った塚があります。 ここには、バッポ石と呼ばれる海岸丸平石を積み上げた石造りの聖観音菩薩像を祀った祠が建てられており、祠の 中には姫が書いたと伝えられる墨書した石経が安置されています。 観音像は大正十年に建立されたものですが、かってはここにお籠り堂もあり、 姫の命日とされる五月十七日には人々が参集していたといわれております。

江戸時代の「平仮名盛衰記」をもとにした浄瑠璃・「梅が枝」は、この梶原景季と千鳥がモデルであるとされています。 「梅が枝」は梶原源太景季と腰元・千鳥の恋物語ですが、千鳥は、 この鐘を打つと来世は無間地獄へ堕ちるものの現世では富に恵まれるという、伝説の鐘・「無間の鐘」をつき、 景季の出陣費用を工面します。

合田の千鳥伝承は、この「梅が枝」に強い影響を受けたものであり、史実とは異なる点もあります。 また、千鳥が流れて落ち延びてきたことや、写経の日々を送り、来世に対して罪業をはらそうとしたことなどは 合田の千鳥伝承独自のものです。

仏教的に罪深いとされる千鳥を合田の人々は受け入れ、供養をしたことで、千鳥姫のゆかりの美しい「杏の里」となったのです。

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